心の痛みを解消するには

悲しみや憎しみで心が苦しいとき、あなたならどうする?

胸に輝く星 を見た後で《ネタばれ注意》

あらすじ(1957 アメリカ 95分)
西部のとある町に、賞金稼ぎの男が流れ着く。だが、素性の知れない男を泊めてくれる宿はない。
野宿を覚悟した彼は、母親と二人暮らしの少年と出会い泊めてもらうことになり妻子を亡くした過去を持つ男は少年に愛情を覚えるようになる。
保安官として働いた過去も有る賞金稼ぎの男は、経験を生かした言葉を伝えることでこの町の問題に取り組む保安官との関係も描いた作品。


地域の持つ特殊ともいえる考えは経験から作られている。
良いとも悪いともとれる事は私達のまわりにも数多く有る。
異端のものが現れた時にどう対処するのか?
ただ反発するのではなく思慮深く扱う事で自身の考えをより良く出来ると考えられる。
結果を自身で導き出すのではなく他と共にたどり着く事で受け入れ、自身の経験とする事が大事なのではないだろうか。


ここで、アメリカ映画で多く表現される「神」について勝手な考えを少し書き足しておく。
神の考えとして広く知られているものは聖書と呼ばれている。
聖書なるものは人間として生きていく指針として考えられている。
その言葉ひとつを考えると道を誤り、全てで考える事で成り立つと考えられる。
言い換えれば、
幼き頃より知識と経験を身につけ正しいと思える方向へ歩みだす。
良い事悪い事。全てが正しいと思って行動した結果の一つであり、正しい誤りと判断しながら生きていく。
このこと事態を書き表しているのが聖書と言えるのではないだろうか。
ならば、聖書から読み取る知識を一例と考え、自身の感じ取る正しい道を歩む勇気を持つ事が必要となり、
全てが自身の責任で、間違っていると言われた時には素直に反省する事で次への糧にする。
この繰り返しを必要とされていると考えている。



「間違った事をしたから罰を与えなくてはならない。」与えるではなく与えなければならないである。
間違った事に罰を与える事は間違いでは無いと思っている。与える事は必要だが、与えなければならないと考えるのは正しいのだろうか。
反省を見える形にしたいのは、罰を与える側の感情であり罰を受ける側の反省には結びつかないと思っている。
反省の大きさを決める事も、間違った事をした者の責任である事を理解する事が重要であり、間違いを見つけた者の報奨として扱ったり、感情を宥めるのに値する反省の大きさを他者が勝手な判断で決めるといった事は暴挙となるのではないだろうか。
大きな間違いが起きた時に、判断を決める経験が無い者の代わりとして司法制度があるものだと考えている。身の回りに起きている小さいと判断されるものについては個人で裁いているのが実状ではないだろうか。
個人で裁く時に、間違ってしまった者の反省に被害を被った者の感情を宥める事が出来る大きさの罰を与える事が大事だと考えられている。
そこには、加害者が間違う迄の経緯や経験などを理解しようとする被害者は有るだろうか。
間違った事を理解した加害者は、自身の反省と被害者の苦しみを考えてるだろうか。
生活をするために犠牲を払って頑張ってる人々が被害者や加害者になったときに、他を思いやる時間を作れるのだろうか。


幼き頃より自身の考え方を違った視点から見ている者の大切さを知る事が大切だと思う。
好きな者だけを集めるだけでなく嫌いな者こそ必要かもしれないと考える事が大切だと思っている。
傷つけられる事を恐れるのは誰しもが考える。
傷つけようとしていると判断したときに「かもしれない。」といった考えが必要であり、傷つけられると決める事が間違いだと思う。
傷つけられるかもしれないから離れるのは正しくて、傷つけようとしたと吹聴することは間違っていると思う。傷つけようとしたと本人が認める場合以外は。
誤解が誤解を生み、必要の無い罰を与えようとする者が現れ、必要以上に苦しむ者が涙を流すのは間違っていると思う。
正しい事実を求める考え方が出来るように、少しの苦しみに耐えられる心を持てるようにしたい。
真実を見る眼を持ち、苦しんでいる者の言葉を聞く耳を持ち、間違いを嗅ぎ分けられる鼻を持ち、正しい言葉を伝える口を持つ。
そんな者になりたいと思う気持ちで暮らして行ければと考えているが、かなり難しい。